大判例

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大阪高等裁判所 昭和46年(う)841号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

〈前略〉

論旨に対する判断にさきだち、本件の概要についてみるに、本件公訴事実の要旨は「被告人両名は昭和四三年一月一五日神戸市生田区内で行なわれた関西地区反戦連絡会議主催の『米原子力空母の日本寄港反対』を目的とする集会に伴う集団示威行進に参加したものであるが、右集団示威行進は兵庫県公安委員会及び所轄生田警察署長より路上に坐り込むなど一般交通の妨害となるような行為をしないことなどの条件を付して許可されたものであるのにかかわらず、共謀のうえ同日午後四時四二分ころ神戸市生田区加納町六丁目一〇番地神戸アメリカ総領事館北側路上において、右行進隊員約一五〇名に対し被告人清田がマイクにより口頭で、被告人坂井が両手を上下に二、三回振り、それぞれ路上に坐り込むよう指示して右集団示威運動参加者約一五〇名をして約七分間同所路上に坐り込みをなさしめ、もつて兵庫県公安委員会が付した許可条件に違反して行なわれた右集団示威運動を指導するとともに、生田警察署長が付した道路使用許可条件に違反して行なわれた右坐り込み行為を教唆した」というのであつて、これに対し原判決は道路交通法違反の事実だけを有罪と認め、昭和二五年神戸市条例第二一七号「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」(以下単に市条例という)第五条違反の点については被告人らが兵庫県公安委員会が付した許可条件に違反する路上の坐り込みを指導した事実は認められるとしたうえ、たとえ許可条件違反の集団示威運動を指導したとしても、その場所的、時間的状況、その規模などその態様如何によつては市条例の保護法益とする公共の安寧が侵害されるおそれのない場合もありうるのであり、公共の安寧に対する直接かつ明白な危険がなく可罰的な違法性が認められない限り、市条例によつて処罰されるべきものではないとの見地にたつて、本件集団示威運動の構成員、コース及び被告人両名の役割、本件集団示威運動の動機目的、態様、警備当局の警備状況、本件坐り込みをするに至つた動機、原因、坐り込みが行なわれたのは交通量のあまり多くない道路上であり、平常時よりもさらに一般の通行が少ないと考えられる休日の夕刻時に行なわれたこと、右坐り込みに参加した人員も多くなく、その着衣、所持品等にも危険を予想させるものはなく、しかも坐り込み人員に倍する機動隊員の包囲下で行なわれ、これが暴力的事態に発展する危険性は全くなかつたこと、その坐り込み時間も僅か七分間位のことであり、現実に発生した一般の交通に対する妨害の結果も僅少であつたこと、さらに右行為が坐り込み梯団員らの平和を願う気持から出たものであることが認められるとし、これらの事実関係の下における本件坐り込み行為は市条例が保護法益とする公共の安寧に対し直接かつ明白な危険があつたものとは認められず可罰的違法性が明確でなく、罪とならないものであると判断した。

控訴趣意第一点法令解釈の誤りについて。

論旨は以上の原判決の判断に対し、市条例五条の許可条件違反の罪はいわゆる抽象的危険犯であり、原判決が公共の安寧に対する直接かつ明白な危険の発生を要件とするいわゆる具体的危険犯とするのは市条例五条の解釈を誤つたものである。すなわち、市条例五条はその文理解釈上三条一項但書一ないし六号の事項に関し付せられた条件に違反する集団示威運動は、その具体的条件が右各号に法律上該当しない場合は格別、そうでない場合は自然に公共の安寧を侵害する抽象的危険があるものとし、その指導煽動行為等を違法行為類型として処罰するものとしているものと解せられる。原判決が具体的危険犯であるものと解する根拠として掲示しているところのイ、憲法二一条が保障する表現の自由は民主政治の基本原則の一で最大限に尊重されるべきこと、ロ、市条例による表現の自由の制限は公共の安寧を維持する目的に出るものであること、ハ、市条例五条は許可条件違反行為の指導者らに対し一年以下の懲役を含む重い刑罰を科していることなどの諸点は根拠として薄弱である。むしろ憲法で保障する表現の自由の一発現様式としての集団行動といえども公共の安寧すなわち公共の福祉の立場から最少必要限度の規制を受けるのもやむを得ないのであり、通常道路上に集団で坐り込みをすれば公共の安寧保持の一内容をなす交通秩序を阻害するおそれがあることは社会通念上明白であり、そのうえさらに具体的に公共の安寧に対する直接かつ明白な危険を及ぼしたという結果が発生した場合にかぎつて処罰するものとする必要は全くない。原判決はアメリカ法に由来する「明白かつ現実の危険の原則」をとりいれているものと思われるが右原則はアメリカにおいてすでにあまり適用されなくなつており、この原則を市条例の解釈に導入し市条例の明文をこえてまでその制約を限定することは誤りである。また集団行動が潜在的に内包する物理的な力により一旦法秩序を蹂躙しはじめると、警察力をもつてしても如何ともし得ない事態に発展する危険が存在するから公共の安寧に対する抽象的危険の存在する事実が発生した際できる限りすみやかに集団行動を規制する必要があり、許可条件違反の行為があつた場合一々具体的な状況から果して公共の安寧に直接かつ明白な危険が生じているかどうかを判断しなければならないというのでは到底規制をなし得ないこととなり、公共の安寧の保持の目的を達することができない。またさらに原判決の判断はいわゆる許可申請手続を経ないで行なわれる集団行動について抽象的危険犯の見解に立つものと解される最高裁判所判例(昭和三五年七月二〇日大法廷判決刑集一四巻九号一二四三頁、昭和四一年三月三日第一小法廷判決刑集二〇巻三号五七頁)に反するものである。なお原判決は法益侵害の軽微性を主たる理由とし動機目的の正当性、手段の相当性が認められる場合には可罰的違法性なしとするいわゆる可罰的違法性理論を採用しているものの如くであるが、右理論は構成要件の範囲を不明確にし、構成要件の保障的機能を無視するものであり、また刑法の明文がなければ違法性阻却事由を認めないとする原則に反し超法規的違法阻却事由を認める結果になり、誤つた解釈である、と主張する。

よつて考えるに、当裁判所は市条例五条の許可条件違反の罪の成立には単に市条例三条一項但し書各号に基づき兵庫県公安委員会の付した許可条件に違反するだけでは足らず、さらに右条件違反の行為により公共の安寧に対する直接かつ明白な危険を生じたことを要するいわゆる具体的危険犯であると解するものであり、この点原判決とはやや見解を異にし、所論のいわゆる抽象的危険犯であるとする見解とも異にするものである。

すなわち、憲法二一条で保障する表現の自由は侵すことのできない基本的人権でありその完全な保障が民主政治の基本原則の一つであることはいうまでもないところである。そして政治経済等に関する思想主張の表現としての集会、集団行進及び集団示威運動(以下これらの行動を集団行動という)は表現の自由として憲法により保障されているものであるから、たとい集団行動に危険性が内包する点からこれに制約を加えるべきものとしても、その制約は法と秩序を維持するに必要かつ最少限度のものにとどまらなければならない。市条例は一条において集団行動を行なうにあたつて公安委員会の事前の許可を要し、三条において右許可をするについて公安委員会は条件を付することができるものとし、四条において許可申請手続をなさないまま行なつた集団行動あるいは許可条件に違反して行なれわれた集団行動に対し公安委員会は警察本部長をして所要の措置をとらせることができるとし、五条においてこれら無許可又は許可条件違反の集団行動の主催者、指導者、煽動者に対し刑罰を科するものとするなど、集団行動に対し事前事後の諸制約を認める規定をおいているのであるが、その解釈運用にあたつては右の趣旨から慎重な考慮を要するものであつて、条例の運用にあたる公安委員会や警察官が公共の安寧の保持の名目のもとに平穏な集団行動まで抑圧することのないよう十分留意されるべきである。以上の基本的見地にたつて市条例を検討するに、

(一)、市条例の保護法益の観点からみるに、市条例一条が集団行動を行なうには公安委員会の許可を要するものとしながら「但し、次の各号に該当するような公共の安寧秩序を維持する上に直接危険を及ぼさないことの明らかに認められる場合はこの限りでない」と定め、三条一項が公安委員会は許可申請に対し集団行動の実施が「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない」また同条三項は公安委員会は前二項の規定にかかわらず「公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つたときはその許可を取り消し又は条件を変更することができる」ものと定めていることによつてみると、市条例の保護しようとするのは地方の公共の安寧であり、しかも表現の自由としての集団行動と公共の安寧保持の立場からする集団行動に対する制約との調和を公共の安寧に対する直接かつ明白な危険の発生という点に求めているものと解せられること、

(二)、そして集団行動が市条例の保護法益を侵害し公共の安寧に対する危険を発生させた場合、市条例はその参加者に対しては四条による強制措置を定めているのであるが、右強制措置について四条は集団行動が公安委員会の付した許可条件に違反したことのほかに、公共の秩序を保持するためという要件を付していること(そのとりうる措置についても集団行動の個々の構成員に対する警告はもとより制止その他必要の処置をとり得ると規定しており、実質的には集団行動の禁止に等しい措置を即時強制できることまでも認めていることからみると、警察官職務執行法五条の規定と対比して考えれば、市条例四条にいう「公共の安寧を保持するため」というのは、公共の安寧を害するような行為が行われようとしている場合から、最終的には集団の秩序が紊れ集団以外の一般市民の生命、身体、財産に危害が及ぶ虞のあるような危険が発生している場合まで、段階的にいうものと解すべきものである、)、

(三)、許可条件違反の集団行動といえども、その行なわれた場所、時期、方法、規模、四囲の状況等からみて種々の態様がありうるのであつて、その態様如何によつては市条例の保護法益とする公共の安寧が侵害される結果を発生しない場合もあり、(例えば多数集団構成員中の極く一部の者が許可条件違反の物件を携帯したり、だ行進を行つたような場合)かような許可条件違反の集団行動に対してまで、許可条件に違反することの一事をもつて、その主催者、指指導者などに対し許可条件違反の罪が成立するものとして刑罰を科することは集団行動が憲法上の権利であることからして、憲法二一条の趣旨に反する疑を生じること、

(四)、許可条件の内容及び付与の実情の観点からみるに、いわゆる抽象的危険犯というのは法令により当該行為それ自体公共の危険を発生させるものと擬制されているものであるから、抽象的危険犯というためには、当該行為が法令に具体的に規定せられ、かつその危険性が右の擬制に値する程度のものであると同時に、法令の規定そのものが右の擬制をしているものと解せられるものであることを要するのであるが、市条例三条一項は一ないし六号において許可条件を付すべき事項を包括的に定めるにとどまり、その具体的内容の決定をあげて公安委員会の裁量に委ねており、しかも昭和三六年二月二二日兵庫県公安委員会訓令第三号「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例の事務取扱規定」三条は公安委員会は右許可条件を付け又は変更することを兵庫県警察本部長又は所轄警察署長に代行させることができるものとし、原審証人古山丈夫、同村上信光の各供述によると、兵庫県においては右訓令に従い、集団行動の許可申請があつた場合、警察署長が不許可相当と認めるときは直ちにこれを公安委員会に報告し、公安委員会において直接その許否を決するけれども、警察署長が許可相当と認めた場合には、すべて同署長が右許可及び許可条件の付与を公安委員会に代行しているのが実情であり、結局許可条件の内容は神戸市議会の手を離れて実質的に警察察署長の裁量に委ねられている結果市条例五条の許可条件違反の罪の構成要件の内容が市条例自体において定められることなく警察署長の裁量により決定されるところとなつており、警備の必要という点から勢い市条例の予想する許可条件の範囲をこえた条件を付するおそれがないものとはいい難い面があること、

(五)、実際原審において取調べた公安委員会作成の本件集団行動に関する条件書によると、「2、刃物、棒、はだか火その他の危険物または一般交通の妨害となるような長大な物を携行しないこと、3、行進は秩序正しく行ない、だ行進、うず巻行進、もしくは理由なく停止したり路上に坐り込むなど一般交通の妨害となるような行為をしないこと」という、その違反自体かなり高度の公共の安寧に対する危険を内包し、あるいはその程度状況の如何によつて右危険を招来する可能性のある条件を定めるとともに(すなわちこれらの条件については集団行動参加人員数、違反行為を行なつた者が大多数であるが極く一部の者であるか、違反を行なつた場所、時間等の具体的状況により差が生じるものと解せられる)、他方「1、官公庁の周辺に停滞し、または異常な騒音を発するなどその事務を妨害しないこと」というその違反自体公共の安寧の保持に縁遠いと認められる条件を付し(なお本件集団行動の当日は一月一五日で一般官公庁は休業している)、「4、主催者または現場責任者は行進開始前にこの条件を参加者全員に放送するなどの方法によつて周知徹底させること」というその違反が直ちに公共の安寧に対する危険を生ぜしめるものとは認められない条件を付していることが認められ、これらの条件違反の行為のすべてが抽象的危険犯としての実質を備えているものとは解せられないこと、

などの諸点が認められ、これらを総合して考慮すると、市条例五条の許可条件違反の罪は、その成立について、単に市条例三条一項但書各号に基づき兵庫県公安委員会の付した許可条件に違反するだけでは足らず、さらに右許可条件違反の行為により公共の安寧に対する直接かつ明白な危険を生じたことを要するいわゆる具体的危険犯であると解するのが相当である。

所論は、公共の安寧に対する直接かつ明白の危険の存在という原則はアメリカ法に由来するもので、その母法においてすでに過去のものとなつているのに、今これを市条例の解釈の指標とすることは誤りであると主張するけれども、右の原則の母法における適用状況はともかく、市条例一条及び三条が公共の安寧に対する直接かつ明白な危険の現在することをもつて集団行動に対する制約の根拠及び限界とする旨明文で宣明しているのであつて、原判決もこれらの規定を前提として論じているのであるから、所論は正当でない。所論は、また右のような危険が発生したか否かを判断しなければならないとする見解をとつていては到底規制をなし得ないと主張するけれども、右危険が発生したか否かを集団行動の現場の具体的状況から判断することはさほど困難なものとは考えられず、そもそも市条例は、その運用の如何によつては憲法二一条の保障する表現の自由を侵す危険を包蔵するものであり、それゆえにこそ、前述のとおり市条例自身が制約を付しているものと解せられるから、その運用にあたる公安委員会をはじめ警備担当者は、平穏な、いまだ市条例の保護法益を侵害し、あるいは侵害するに至るべき明白な危険も認めるに至らない集団行動まで抑圧することのないよう極力戒心すべきものであり、所論は警備の便宜に傾斜したもので賛成することはできない。所論はさらに市条例五条の許可条件違反の罪を具体的危険犯と解することは最高裁判所判例に反すると主張するけれども、所論指摘の判例はいずれも他都市の条例に関するものであるばかりでなく、そのすべてが事前の許可申請手続を必要としているのに、許可申請手続を経ることなく、無許可で集団行動を指導した事案に関するもので本件に適切でなく、許可申請手続を経ることなく行なわれた集団行動の具有する公共の安寧に対する危険性と、許可条件に違反する集団行動の危険性とは一般的に程度を異にするものと認められるから、許可申請手続違反の罪を抽象的危険犯と解するからといつて、直ちに許可条件違反の罪を同様に解しなければならないものではない。

以上の次第で当裁判所は市条例五条の許可条件違反の罪はいわゆる具体的危険犯であると解するものであり、原判決とはやや見解を異にするのであるが、原判決も結局は具体的危険の有無により右罪の可罰性を決しようとし、本件について具体的危険のないものと認定したうえ罪とならないものとしているのであつて、実質的には当裁判所の見解と異なるところはなく、市条例五条の解釈を誤つた違法があるものとは認められない。可罰的違法性の理論の当否に関する所論について検討するまでもなく、論旨は理由がない。〈後略〉

(田中勇雄 尾亀輝次 小河巌)

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